意味 について

   しばしば、「生きているだけで偉い」という言葉を聞くことがある。それは、生を営んでいるというそのこと自体に対する肯定または慰めのようなものであろう。何故なら、日々の、基本的には「繰り返し」の多い単調な流れのなかを歩んでいくことは、そう簡単でもなく、つらさや苦しさや意味の喪失からくるやるせなさ等々の負の感情に対面させられることの多い故に。

 

   最近の、特に倫理的なことや哲学的なことに関心を持つような若い人たちのあいだには、厭世的な雰囲気が漂っていることも稀ではないように思う。そうなるのは、「生」の意味を考えるからにほかならない。私たちは自らが「存在」し、「生きている」ということに対する意味を求めてしまう。仮に意味自体というものなどなく、「意味」はあくまでも私たち人間が生み出し、作り出しているものだとしても。だが、「意味自体」などというものがないのだとしたら、私たちは一体なぜ、そして何を、求めようとしているのだろうか。

   自らがそこに見出した「意味」を事象に投影しているにすぎないのだろうか。そもそも、同じ事象に対して見出す意味は、各自において異なるであろう。ある人はそこに大きな意味を見出し得るであろうし、ある人はそこには意味を何ら見出せずに、別の、その人にとって意味を見出せる事象を見つけてそこへと向かうであろう。

   人は、自らが何らかの、その人にとっての「意味」を見出せる場所へと向かうものである。そのことは、「関心」と置き換えてみてもよいかもしれない。そこに何か心惹かれるものがある限り、そちらへと自ずから向かうのである。そのもの自体に「意味」があるかどうかについては今は問わない。やはり「意味」にはまず人間によって生み出されて、ときには極私的な、ときにはより公な「意味」として、ある対象へと付着させられるという面をもつ。

   世の中には数限りない事象があるだけに、意味は多様かつ無限に溢れており錯綜し入り混じっている。人は絶えず、自分にとっての「意味」を求める。それは、より「真なる」意味を求めているからであろう。そのことができるのは、そのような「真なる」意味のようなものがある、またはあってほしいという想定、願望のもとに、そこへとこころを置いているからであろう。

 

   さて、冒頭で述べた言葉についてである。その言葉に含まれている意味は、理解できない訳ではないが、何か違和感のようなものを感じさせる。そこで、つぎのように言い換えておきたい。すなわち、「生きていること、そのこと自体は、偉大なことである」、なぜなら、私たちはまずもって「生かされて」いるのであって、生かされているということは、尊いことであるからである。

 

   キリスト教では、もっとも重要な掟として、「心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くして、神を愛しなさい」ということの次に、「自分自身を愛するのと同じように、隣人を愛しなさい」ということが言われる。隣人を愛することに先立って、「自分自身を愛する」ということが挙げられている。「自分を愛する」というと難しいようであるが、それは、「受け入れる」ということに近いように思われる。それほど簡単なことではないであろうし、場合によっては、他人や自分以外の事物をそのままに、あるがままに「受け入れる」ことが出来たときに、自分をも受け入れることができる、ということもあるかもしれない。そこでは順序や過程というよりも、何らかの対象——「自己」さえも自身にとっての「対象」である——を完全に、そのままに、存在自体において存在自体から、「受け入れ」、「包み込む」ような作用——「愛」と呼んでもよいかもしれない——そのものが、必要とされているのである。

 

 

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(晩夏の夕暮れ 2020/9 )