純粋な流れ

  「スパン」というものについて、考えていた。時の流れのスパン、について。

 

たとえば、「5年間」という長さがある。19〜24歳までのそれと、76〜81歳までのそれとは、どちらもそれぞれに同じ長さであり、重たさを持っても、どこか、何かが、同じであるとはいえないようである。

こころはそんなに変わっていないようでも、やはりゆっくりと、「いのち」はそのたどり着くところに向かって進んでいる。

どんなに時が経っても、相互のあいだの変わらないこころの交わりがあるだけに、それ以外の周りの諸々の変化や、一刻、一刻と刻まれてゆく、過ぎてゆく、流れのようなものに対する抗えなさと、大きさと、それなりの重みに なんともいえないようなものを感じる。

 

ところで、子どもにおいて感じられている時の流れは、大人になるにつれて感じられるそれとはまた違うんだろうと思う。大人になるにつれて、日々の「時の流れ」はより明確なものとしての、「時計の時間」となって意識されてゆく。それは、たしかに、時間に対するコントロールが増して、ある時をより貴重に、真剣に、守ることができるという意味では価値があることかもしれない。 しかし、子どもがもつ時の感覚は、単になんとなく流れてゆくつかみどころのない連鎖のようなもの以上の、大人になるにつれて失われてゆく原初的な純粋さがあるように思われる。

 

たしかに子どもは、それぞれの家庭環境や周囲の状況、育てられ方などによって大方規定された枠組みの中にすっぽりと含まれているという点で、自由とはいえない。しかし、「時」の感じられ方においては、どんな子どもも、少なくとも大人よりも、自由、であるはずである。

 

「時間」を意識し得ないのだから、そのはずであるというだけであるかもしれないが、それでもそれは、子どもの期間だけに与えられた無垢性であり、そのあいだの経験は、その無垢性のうちで捉えられ、感じられた出来事として、そのずっと後に、ある程度の印象や意味を残すものとなる。

 

そのような無垢性における経験は、「時間」というものが意識されたあとになされた経験とは異なる層に位置する。そうしてたまに、それらの原初的な経験は、その後の生活のはざまで顔を出したり、何かを選んでゆく際の方向性に影響を与えたりするのに加えて、ほんのたまに私たちが子どもの頃の時間性にふと戻るような瞬間には、「いま」は再び個々の「わたし」の原初的な流れへと合流し、それと重なり、響き合うこともある。

 

原初的な無垢性における流れは、それぞれにおいてそれぞれに内的にもっているものであり、それはそのままそのように「感じられている」ものであるのだから、与えられているものでもある。時が経って、そのような時間性から遠くかけ離れていても、どこかでそれは自身を呼ぶはずであり、かつての失われた無垢な流れに代わるような、より成熟した反省と省察、また、ゆっくりとした回想をもってして、そこへとふと立ち返ることで、「いま」とそことの調整を図ってゆくのである。