トーマス・マン「魔の山」より

「……しかしながら、人間の精神生活ではいっさいが相互に関連しています。互いが互いの原因となり結果となるのです。また、悪魔には小指さえも与えるな、さもないと手の全部、いやそれどころか魂までも奪われるともいわれているでしょう。.....他面また、健康な原理というものは、そのいずれかを最初にしようとも、つねに健康なものしか生み出さないのですから。......」

(p,210,l,8- )

 

「ディレムマ、すなわち悲劇というものはね、あなた、自然で高貴で健全な精神を、人間生活に耐えられない肉体に宿らせ、それによってその人格の調和を無惨にも破壊するときとかーーあるいは最初からそのような調和を不可能にしているーーというような場合にのみ起こりうるのです。......」

(p,211,l,5-)

 

「......それはつまり、エンジニアが精神的な道楽をなさって、天分ある青年の常として、いっさいの可能な見解の味をちょっと試してみようとしておられるのだろうという私の推察がまったく正しかったことを証拠だてているのです。天才的な青年というものは決して白紙なんかではない。生も邪も、いわばいっさいがすでに魔法インクで記入されている紙片のようなものです。教育者の仕事は、この正をはっきりと現像し、映しだされんとしている邪を、適当な感化によって葬り去ることです。......」

(p,213,l,9-)

 

(魔の山、トーマス・マン / Der Zauberberg ,Thomas Mann  高橋義孝訳[上巻]、新潮文庫 より)