人間の生と時間

私は何を求めているのか?

 

私たちは何を求めているのか。

 

生きるとは何か、という問いかけは、あらゆる方面から、そして昔から、問われ続けてきている。

 

そう問うことができるのは、まず前提として、生きるという私たちの営みには、固定化された枠やルートがないことが挙げられる。

時代や国、環境により、たとえばインドのカースト制のように、生まれながらに生き方や在り方が決められている場合もあるとはいえ、それでも基本的に人間は、自分という意識のもとに、常に、行動の取り方や選択の仕方、考え方や、生きてゆくみちの可能性を、問い、考える、ということができる。

 

教育制度によって、ある程度の年齢までは大方決められているみちを通ってくるのではあるが、大人になるくらいの年齢からは、ひとりひとりの歩んでいく先は、あまりにも多様である。 ある人はやむを得えず何かを選ぶこともあろうし、ある人はそれなりに満足して何かを選ぶのかもしれないし、または夢や目標を追い続けているような人もいるかもしれない。

しかしいずれにしても、この社会の中で生きていくということは、それなりの仕事に就いて、ある程度の妥協や調整をしつつ、日々を過ごしている人は多いだろう。

 

私にとって、時間というもの、そして、私が存在していること、これらの二つは、大きな問いであり、また、あり続けるだろう。

 

何気なく日々を過ごす、ということが、あまり得意でないのかもしれない。

一日、また一日と日が過ぎてゆく、そのような流れを意識的に感じてしまうとき、果たして自分はどのように、与えられた、有限の時間を使ったらよいだろう、という問いが浮かばざるを得ない。

人間にとってほんとうに大切なもの、求めつづけていなければならないもの、失ってはならないもの、そのようなものとは何か、

そのような問いを問うことのできるのだから、そのようなものはあるのではないか、そして、そうなのだとしたら、私たちは、私たちの日々の多様な生活に埋もれてしまうことなく、いつも、こころのどこかで、ほんとうの幸福や、希望、光を、見据えて、掴もうとして、「目を覚まして」いなければならないだろう。