ある感覚

小さい頃によく感じていた、ひとつの感覚について、書いてみようと思う。

 

それは岩手の家にいた頃、寝室で、寝る前に感じていたものだ。

毎日、毎回、とまではいかないけれど、その、おんなじ感覚は何度もあったと思う。

 

寝室には、白い、明るい電気と、小さくて、オレンジがかった電気があって、寝る前にはよく、オレンジのほんのり暗い電気が付けてあった。

寝室のベッドはダブルベッドで、私は母と一緒にそこで寝ていた。私は壁際だった。

 

たいていは、私の方が早く寝る準備を済ませて、というよりも、おそらく母が済ませてくれて、先に寝室にひとりで横になっていた。母はいつもそれから少ししてから、寝室にやってくるのだった。

そのわずかな一人の時のあいだに、その感覚を得ることが多かったと思う。

仰向けにごろんとして、オレンジ色の、小さなランプをぼうっとみていると、それはよく起こった。 あまり普段は感じない感覚で、どう言い表わしたらよいかも曖昧なものだが、その頃の私はそれを、「あきた」 と表現していた。

それを感じると、ふしぎと、いつもとは違う心の状態、次元、相 に入ったようで、それでも、悪くはない、漠然とした広がりのあるような、脳のどこかに違った電流でも流したような、何かがそのあいだは変わってしまっているような、感覚だった。

そして、それを伝えたいと思ったのだろう、母にはよく 「なんかあきた〜ってかんじがする」と言っていた覚えがある。

 

おそらく、「あきた」とは、「飽く」と当てられるのだと思う。その頃はまだ、飽きる、という言葉の意味に、古文で出てくるような、「満ち足りる、満足する」ということまでも含まれるということは知らなかっただろう。しかし、「あきた」という言葉が出てきたのは、そのようなニュアンスも含めてのことだったように思える。

 

なぜいつも、同じ部屋の、だいたい同じ時間帯に、同じオレンジ色のランプをみて、そのようなことを感じていたのかは分からない。 けれどその感覚は、印象に深く残るものだったし、いまでもなんとなく、思い出すことができる。

じんわりとした、漠然とした、違う言葉を添えるとしたら、「懐かしい」ような、感覚だった。  私は妙に落ち着いて、その、わずか数分つづくかどうかの感覚のなかにいたのだった。

幼稚園の後半か、小学校のはじめか、そのくらいだったような気がする。

 

いつか、このことを表してみたいと思っていた。