heutiges Gebet 今日の祈り

Das Herz

„Wenn wir Psalmen singen, dann soll unser Herz mit dem gesungenen Wort zusammenklingen.“

„Keiner soll nach dem eigenen Nutzen streben, vielmehr soll jeder auf das bedacht sein, was für den andern gut ist.“ (Aus der Regel des hl. Benedikt)

 

(ein Zitat aus „Schott,Erzabtei St.Martin zu Beuron und DEUTSCHES LITURGISCHES INSTITUT,Montag 11 Juli 2022)

 

こころ

「わたしたちが詩篇をうたうとき、わたしたちのこころはそのことばとともに鳴り響く」

「人はだれもみずからの益のために労するというよりも、だれかにとってよいものに心を留めるように求められている」

(拙訳)

 

 

詩篇は祈りの書であり、詩篇で祈るとき、私たちは、その祈りのことばをこころに沁みとおらせて、ことばとひとつになって、神さまに向かって、神さまのまえで、しずかに、祈りを捧げようとする。

 

誰も、深いところでは、みずからのよろこびよりも、他の、誰かの、よろこびをよろこぶときに、ほんとうの、長くつづく、よろこびに出会えるのだろう。

 

「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」   (マタイ10.39)

 

日々生きていると、どうしても目先の利益を考えてしまうこともあるが、大きな視点、遠く広がる時間のスケールでものごとを、せかいを、みようとしたとき、この聖書のことばの意味がわかるような気がする。

身近なたとえなら、子どもを育てることにかける時間やちから、手間、気待ちは、そのようなものなのだろう。

もちろんそれは、ひとによって、その人に与えられているものによって、その人が取り組むべき課題、使命は異なるであろう。

 

「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。」

「また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。」

(マタイ10.37,38)

 

まず、ひとりひとりが、みずからに与えられた存在、いのち、を受け止めて、支えられてある、という感覚のもとに、イエスさまの十字架を自身に刻んで、いちどきりのみちを、日々、歩いていかなくてはならない。

そうして、それがあって、出会うせかいや人々、出来事に、みずからの中心的な支えのもとで、取り組み、かかわっていくことができるのだろう。