マタイによる福音

 

(そのとき、イエスは言われた。)「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

 

(マタイによる福音書 11:28-30)

 

 

この箇所は、聖書の福音書の有名な箇所である。 あまりよくキリスト教にかかわっていない人々でも、この箇所を聞いたことのある人は多いだろう。

教会の前の掲示板にもよく、この箇所が掲げられていたりする。

 

しかし、この箇所の、この言葉が、個人のなかにどのように響き、感じられてくるかは、さまざまであろう。

聖書のみ言葉は、そのときどきの時間、状況、境遇、心境によって、多様な幅や色をもってみえてくる。

 

この箇所の言葉に最初に触れたのは、もう5年は前だったかもしれない。

よくみる箇所ではあるけれど、それほどまでに内的にかかわってくることはあまりなかったように思う。

 

内容的には、とても疲れ切った生活のなかにある人や、差し迫っている人に、響きやすいところではあるのかもしれない。

しかし、そうでもなく、ごく日常の、ささいな、いつもと大きくは変わらないある瞬間にも、響いてくることもあるようだ。

 

この箇所全体から感じとれるやわらかさ、時の流れがゆっくりな空間性、あらゆるものを包むような雰囲気は、いままでにこの箇所に触れたよりも、深く、こころに降りてきた。

 

日々変わりゆく世界にあっても、イエスさまは昔から、変わらずに、私たち一人一人を見ていてくれているのだろうと思った。

ただ、そこに、一緒に過ごしていたいと思った。