トーマス・マン「魔の山」より

 

「......そこには父の名もあれば、祖父自身の名も、曽祖父の名もあった。この「曽/ウル」という接頭語が、祖父の口の中で二つになり三つになり四つになると、孫の少年は頭を横にかしげ、瞑想するような、あるいはぼんやり夢想するような眼つきで、口をつつましくうっとりと開いて、この曽/ウル-曽/ウル-曽/ウル-曽/ウルという音に耳を傾けた。それは、墓穴と時間の埋没を意味する暗い音であったが、それと同時に、現在の少年自身の生活と、遠い過去に埋没した時代との間の敬虔な連鎖を意味し、少年にまったく特異な印象を与えたので、その顔にそういう表情をとらせるのであった。この音を聞いていると、黴くさい冷たい空気、つまり聖カタリーナ教会やミヒャエーリス教会の納骨堂の空気を呼吸するような、帽子を手にして敬虔に爪立ちながら進む歩き方になる聖域の息吹きを感ずるような気がした。そしてまた、足音が反響するそういう神聖な場所の、ひっそりとした平和な静寂の中に身をおくような思いがした。この「曽/ウル」といううつろな音には、宗教的な感じと死の感じと歴史の感じとがまざり合っていた。そしてこれらいっさいが、少年にはなんとなく気持がよかった。いや、おそらく、少年が洗礼盤を見せてくれとたびたびせがんだのも、この音のため、この音を聞いて自分でもその音の真似をしてみたいためだったからであろう。......」

 

(魔の山、トーマス・マン / Der Zauberberg ,Thomas Mann  高橋義孝訳[上巻]、新潮文庫、p.50,l.14~ )