クラウス・リーゼンフーバー小著作集 より

 

「......こうして話し合ううちに、「我」と「汝」の人格的な接触が成立する。対話をする人は、真理に与ろうとする目標のもとで、「汝」への尊敬と愛情のうちに成長していく。その過程では、自分の心にある考えた感情を、保留なしに相手と分かち合うことができるようになる。そして、相手のまなざしと語りに直面することにより、自分自身の考えの中にある真なる洞察と主観的に過ぎない思い込みとを明確に識別することが可能になるとともに、真なる自己理解に達するのである。かくして対話は、対話者同士の努力によって進みながら、互いに共有する真理と善さの領域が広がるにつれて、包括的な真理のもとで「心も思いも一つにし」(使四・三三)、一つの命を共に享受し、一なる目的のために協力し合うようになる。

   真実な対話においては、自己へと還元することができない他者とその意志に出会い、自分が望まなかった真理を知り、忘れようと思っていた自己に目覚めることにもなる。このため対話には、謙遜と勇気が不可欠である。とはいえ、対話の初めに生じがちなさまざまな不安は、しだいに相手と「共にいる」という充実感と、真理のうちに互いに合致する喜びとに取って代わる。自分の心の頑なさと非現実的な夢から解放されたとき、人の理解のうちには真理と意義が露わになるとともに、心が活発になり、大事な決断を下す力をも得るようになる。そればかりか、共に見出した真理と共有した目的に結ばれて、対話の相手は友人として近しい関係になり、互いに支え合うようになる。このように対話が友愛関係を生じさせるがゆえに、相手の中へと自分を脱することによって、相手と共により深く自己の中へと立ち戻り、共通な真理と善さのもとに互いのうちにいることが可能になるのである。対話がこの中心的な段階に至ると、それは愛の交流の場となり、友愛そのもののさまざまな特徴が対話のうちに実現される。なぜなら、愛し合う人間同士の第一の特徴は、話し合うことにあるからである。」

 

(「真理と神秘  聖書の黙想 」 クラウス・リーゼンフーバー小著作集II 知泉書館、p,432-433,l,11~ )