世界の果てのような静けさ

 

蝉が鳴いている。

乾燥機がまわっている。

時計の針が刻んでいる。

聴こえる。

 

季節のめぐりは、やまない。

都心にいても、時の経過はおもむろに、ささやかに、顔を出す。

人がそれに目を向けても、向けなくとも。

 

野生のヒグマの写真が、すぐそこの壁にかかっている。 生い茂るみどりの葉と枝のなかに、二頭のクマがいる。 一頭はこちらをみていて、もう一頭は横を向いている。

 

野生、自然、の時の循環は、人びとの喧騒や生活と並行して、いつも、そこにある。

 

私たちは多かれ少なかれ、ある「ひとつの」世界のなかで生きている。それは、ある意味、皆にとって、共通的な「ひとつ」かもしれないが、そのひとつは、個々のパースペクティブを持ちうる。

 

世界の「ほんとう」、ほんとうの「ひとつ」を知ることはできないのかもしれない。  けれど、多種多様なパースペクティブを概観し、俯瞰し、ときには親密に加担し、具体性に入り込みながら、さまざまなものを、時のうちに通り過ぎてゆくことで、その、「ひとつ」の片鱗を、時をかけながら、垣間見ることが、できるのかもしれない。

 

ふとたまに表れる、世界の果てのような静けさがある。

ずっと続くわけではない。けれど、静けさは、案外近いところにいつもある。 耳を傾けられるものとして、そこにある。

 

時の瞬間を、掴む。