純粋な存在と、そこへのかかわり

何かをする のでなくて、何かをしない のでもない。

良い でもなくて、悪い でもない。

ただ、居る ということ。居る と 居るが隣り合うと、掛け合わさるのだから、居る よりも複雑になるけれど、多様にもなり、豊かにもなる。

居る と居る と居る ならなおさら。 

組み合わせは、数が多くなるほど「込み入る」のと同じように。 

 

まずは、居る がある。「居る」とは、「ある」ということだ。居る は、単に居るのだけれど、時の経過とともに、それは、二重性を帯びるものとなってゆく。「ある」を知りつつ、感じつつ、「ある」ようになる。つまり、すでに、ある は、あるがある であり、ある と、あるがある はそれらのあいだの距離を図ってゆくことになる。乖離であり、矛盾であり、統合を目指しながら絶えず近づいたり離れたりしているようである。

  ある が単にある であったとき、それはとても純粋なものである。すでに二重性を帯びたある は、ある と触れ合うことで、そのあいだは単なるある に近づいている。懐かしさと、包まれているような安心から来る万能感、のようなものはそこに生じやすい。

  ある と触れ合ったあるがある は、あるがある とのかかわりにおいても、ある が生じやすくもなる。

 

  ただある のだということ。根底にはいつもそれがある。ただ、ある、のだ。しかしそれは、いつも、何かによって支えられている。保たれている。支えがなければ、そもそもある のではないだろう。

  あるのでないのではなくて、ある のであり、担保されているということは、ある ことはそのままに受け入れられている。純粋にある とき、それはそうなのであり、それ以外のなにものでもない。 

  それがそうともいかなくなるのは、ある は二重性を持ってゆくことによって、その根底の事実が脅かされるから。あるがある がたくさんのあるがある とかかわるとき、その脅かしは膨れる。単なるある から離れたところで、多数のあるがある のあいだに起こるもつれや空想、出口のない思惑、やりどころの失われた諸々の感情の絡み合い、それらによっては、あるがある のあいだのかかわりに実りはもたらされ難い。

  あるがある、すなわち、自己への反省を伴った、より成熟された「有」は、根底において支えられている「有」を持ちながら、時とともに与えられる「有」への距離の自覚を深めつつ、元からの、みずからのその源泉へと返りつつ、探りながら、 ——それはみずからの内における取り組みであり、かつ、自らを越えたものとの相互作用をとおしてなされ得る—— ある「まとまり」、ある「地点」を目指しながら、微妙な「あいだ」を行き来してゆくのだろう。