「生きる根をみつめて」

こころの時代 「生きる根をみつめて」

-主観混じりの要約-

 

トルコにいるシリア難民の写真を撮る人の回。(小松由佳さん)

秋田の生まれで、田んぼに囲まれて育って、高校以降は山岳部で山登りに熱中。 山岳部に入るために東海大学入るも、山岳部は女人禁制。 トレーニングしまくって何とか入れてもらう。 ヒマラヤにも挑んだときには、名誉のために登る人とか、とにかく、人間のドロドロとエゴをみる。
ヒマラヤ登頂隊から下ろされて、ベースキャンプに戻る途中に、吹雪が酷すぎて、チベットのおじいさんの小さな穴あきオンボロテントに一泊させてもらう。 言葉も通じないけど、真ん中で小さな焚き火をおじいさんが焚いてて、それに映し出されたおじいさんのしわがとても美しかった。
(登頂に対するエゴや欲望よりも、おんぼろテントのおじいさんのしわみたいなのの方が大切に思えた。)

のちも、就職はせずに、山登りをつづける。
あるときは、標高8000m悪天候で、のぼりもおりるもできず、崖みたいなところにからだをくくりつけて一晩過ごす。生と死の境目。 うとうとと眠る。でも、酸素が地上の三分の一しかなく、息苦しさで目がさめる。まだ、生きている。
明け方、顔があつくて、目がさめる。みると、目の前に、でっかい昇りたての太陽に全身が照らされていた。 かおのあつさは、その光。 あまりにも荘厳で、死んでしまったのではないかと思った。
生きている、ただそのことのすごさを感じる。

山のてっぺんではなく、麓で暮らす人々に関心がうつってゆく。 旅をし、写真を撮り始める。

シリアの砂漠、遊牧民を撮る。一緒に暮らす。
知れば知るほど、砂漠にあるゆたかさをみる。 雨が降れば一日で草が3センチ伸びたり。

シリア人の価値観は、「ラーハ」。(休息、ゆとり) この時間をどれだけ持てるか。そのために日々はたらく。。
日本の成功や達成という価値観とはちがったせかい。

シリア民主化運動で情勢悪化。人道危機。シリア人は難民となる。 以降、難民を撮り始める。
難民だから撮るんでなくて、今となっては難民と呼ばれていても、以前はシリアで平穏な暮らし、堅固なコミュニティの暮らしがあったということをベースに、取材し、撮り続けている。

トルコの難民キャンプでの生活は、シリアの人からすると、「生活」ではない。 食べ物と安全が保障されていても、人間としての自由がない → 内戦下のシリアに戻っていく人も多々。。

いまは小松さんはシリア人の夫と八王子で暮らしている。
旦那さんは日本の暮らしになれずに二年間はノイローゼ、引きこもり。 20社近く転々とする。 あるときは品川で内装業。 始発-終電生活をつづけ、みるみる元気なくなる。
夫「この日本の生活は戦争そのものだ。 内戦下のシリアの方がまだいい。」
→シリアと日本の根本的な価値観やルーツの違い...

今は、八王子のモスクのコミュニティを支えとして、何とかやっている。
奥さんは、毎年二人の小さな息子を連れてシリア難民の取材を続けている。 (大変だけど、子どもにシリアのルーツを感じさせたいのもある)

 

 

https://www.nhk.jp/p/ts/X83KJR6973/episode/te/E2JRQNVRR2/

いたみ

明け方、目覚めて胸がいたくなることがある。

 

たいていは、ゆめで何かつよいきもちをおぼえたときだ。    そう多くはない。

 

ゆめには、過去のことがよく、でてくる。

 

かつて過ごし、長年生活してきた家、まわりのひとびと。

ふしぎだ。出てくる人たちは、一緒に住んでいたごく近いひとから、ほんのわずかに、ある時期にのみかかわった人、またはまったく見覚えのない人まででてくることもある。

 

私はふと、小説「魔の山」のことが頭に浮かんだ。魔の山 にも、色々な登場人物が出てくる。そこに出てくるひとたちはさまざまで、特徴的で目立つひとから、影が薄くひっそりとした人までいる。 でも、影の薄さもひとつのたしかな存在感なのだ。 ーー 全体の調和、または、破壊的で不整合的であろうとも、あるひとつの総合のなかにおける。

 

胸が痛んだ。

できごとや記憶は、過去としての過去が過去性をおびてくるほど、ひしひしと、切実になってくるようだ。

 

ゆめはいつも具体だ。

だれかがいて、何かを話し、どこかにいるのだ。

 

よく知っている人が、残念そうな口調で、さびしそうなことを私に言った。

それはかつても、言われたことがある、特に珍しくはない会話に過ぎない。 

 

けれども私ははっとしたのだ。

そうか、彼女はさびしかったのだ。

 

私はときの節目の出来事を、ーーたとえば日本では、お盆やお正月といった ーー 、年が増すごとに、子どもの頃に比べて、それほど大きなものとしては捉えなくなっているのかもしれない。

 

しかしそのようなさまざまな年のしるしや節目や季節の行事・風習は、思っている以上に無意識的に、潜在的に、何かある意味をもっているのかもしれない。

 

家族や親族の集まり、いや、そうでなくてもよい、ーー過ごし方は千差万別だーー 何かある一定の間隔で訪れる、繰り返しのようなものごとは、巡って来るたびに何かを思い出させ、振り返りをさせ、またその先を見据えるような、いや、単に また戻ってきた という気怠さでもいい、とにかくそこに残る諸々の感覚は、節目がない平坦な時の流れの連続のなかに起こりうる、何らかの意味なのだ。

 

「時」にもっと敏感に。

そして、なだらかでかわらない様相のなかにあっても、たしかに変わってゆくものごと、環境、人びと、の変遷や、そのなかにあってもしかし変わらないで持続しているもの、

そういう時の流れのもつ複雑さ、重層さのようなものを感じつつ、ながれにのみ込まれるでもなく、しかしながれに対抗するでもなく、ゆるやかに流れを感じながら、そこにある失ってはならないものごとをすくっていけるように、していたいと思った。

 

 

 

知恵

第一朗読 Ⅰ シラ 51・12-20

 

(主よ、)あなたはわたしを滅びから救い、苦難の時に助け出してくださいました。それゆえ、わたしはあなたに感謝をささげ、あなたを賛美し、主の御名をほめたたえます。
わたしは、若くして放浪の旅に出る前に、祈りの中で公然と知恵を求めた。
わたしは聖所の前で知恵を祈り求めた。これからも最後まで知恵を求め続ける。
ぶどうの花が咲き、実が熟す時のように、わたしの心は知恵を喜びとした。
わたしの足は正しく知恵の跡を踏み、若いころからその跡をたどり続けた。
わたしはわずかに耳を傾けるだけで知恵を得、多くの教訓を見いだした。
知恵によってわたしは向上した。わたしは知恵を与えてくださる方をたたえる。
わたしは知恵の道を実践しようと心に決め、善を求めた。それは裏切られることはない。
わたしの魂は熱心に知恵を求め、細心の注意を払って律法を行った。
わたしは天に向かって両手を上げ、知恵をまだ知らないことを嘆いた。
わたしは魂をひたすら知恵に向け、身を清く保って、知恵を見いだした。
わたしは知恵とともに初めから理解する心を得た。
それゆえ、わたしは見捨てられることがない。

 

参照:

https://seseragi-sc.jp/bible/6月3日%E3%80%80聖カロロ・ルワンガと同志殉教者-4/

 

 

シラ書。

シラ書のことばは胸を打つな...

知恵について。

比喩の美しさ。

 

哲学、フィロソフィーは、その字義通り、知恵を求める。

価値観が交錯して、揺らいでいて、混沌とした今の時代に、人びとは何を求めるのだろう。

 

 

キリスト教信仰について

„IM ZENTRUM UNSERES CHRISTLICHEN GLAUBENS steht das neue Leben, das Christus uns gebracht hat und das er selber ist. Christentum ist doch nicht einfach trockene Theorie, ein dürres System, eine Angelegenheit der Wissenschaft, eine klappernde Abstraktion. Nein, Christentum, das ist ein Mensch aus Fleisch und Blut, ein lebendiges, konkretes, handelndes Wesen, das ein Schicksal gehabt hat, ein Leben gelebt hat, ein liebendes Herz in sich trug. Das Christentum ist Jesus, seine Person und sein Werk, sein Leben, seine Existenz und sein Wort und die Begegnung mit ihm“ (Josef Bommer).

 

「われわれのキリスト教信仰の中心には、新たな生がある。それは、キリストがもたらし、また、キリスト自身である。  キリスト教は、単に乾いた理論や、干からびた体系、学問の事柄や、がちゃがちゃした抽象概念、なのではない。そうではなく、キリスト教は、肉と血からなる人間であり、生きた、具体的な、ふるまいのある本質であり、それは、ある運命を持ち、ある生を生き、みずからのうちに愛するこころを持ったものである。キリスト教とは、イエスであり、彼のペルソナ、彼の働き、彼のいのち、彼の実存、彼のことば、そして彼との出会いである。」

(試訳)

 

 

(ドイツ語文献:  ein Zitat aus „Schott,Erzabtei St.Martin zu Beuron und DEUTSCHES LITURGISCHES INSTITUT“,Samstag 22 April  2023)

いのちの水

「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」  (ヨハネ 4,15)

 

この聖書の一節は、しばしば浮かんでくることがある。

「主よ、その水を私にもください。」

 

きっとこのサマリアの女の返事は、考えるという余地なく、こころからそのまますぐに、出てきたものだったろう。

 

イエスは旅に疲れて、正午に井戸のそばに座っていた。

そこに女が水を汲みにくる。正午、日が照り、誰もそうは汲みに来ない時間に。

 

イエスに水を一杯頼まれ、最初は淡々と、少し鬱陶しそうにも女は答える。なぜ、サマリア人の自分がユダヤ人に水を汲まなければならないのか。

ここでの意識は日常レベルで、自分の生きている現実世界、意識世界から会話をしている。

 

しかし話していくうちに、結局は女の方がイエスに水を請うことになる。

それも、そのことばはごく自然に、しかしこころの深いところから、でてきたもののようである。

「その水をください。」

 

そのひとときの時間には濃さが出ている。

濃さと、ひろがり、打破

 

時間は均等なようで、そうでもないのかもしれない。

私たちは物質的な世界を生きているようでいて、でもじつのところは多分に意識世界に生きている。

 

 

(参照:ヨハネ福音書 4,5-15)

 

 

 

水のこころ

水のこころ

 

みずは つかめません

みずは すくうのです

ゆびをぴったりつけて

そっと たいせつに

 

みずは つかめません

みずは つつむのです

ふたつのてのなかに

そっと たいせつに

 

みずのこころも

ひとのこころも

 

 

(四旬節第三主日、答唱のうた)

 

聖歌 平和の祈り

https://youtu.be/JJ5ksP0lzqo

 

平和の祈り -アシジの聖フランシスコ-

 

神よあなたの平和のために

わたしの全てを用いてください

 

憎しみのあるところに愛を

争いのあるところに許しを

わかれているところはひとつに

疑いのあるところに信仰を

 

あやまりのあるところに真理を

絶望のあるところに希望を

悲しみのあるところに喜びを

闇には光を

もたらすために

 

神よわたしに

望ませてください

慰められるよりも慰めることを

理解されるよりも理解することを

愛されるよりも愛することを

 

自分を与えて 与えられ

すすんで許して 許され

人のために死んでこそ

とわに生きるのだから

アーメン

 

 

 

高田三郎の聖歌は、ふと、ときどききく。

高田さんの色んな曲を聞いていて、たとえば数年前に聞くのと、最近聞くのとでは、響いてくるものが違うこともあるかもしれないけど、私はこの歌に、宗教のきわみのようなものを感じる。

 

歌だから、ただ、歌詞を読んでも、むしろちょっと聞きなれなさや怖さを感じる場合もあるかもしれない。

ただ、歌詞を、読解のように考えるのでなくて、メロディーに乗ったひとつの全体的なものとして、自分のあらゆるかぎりのぜんぶでふわぁと受け止めようとするとき、ひとつの歌は私に浸透して、ともすると陳腐に色褪せたりしてしまうこともある世の日々が、違った相のもとにみえてくるような気もする。

 

ある価値は、転覆しうるものであり、たとえ理念としての価値であっても、理念はこころに伝わることがある。