「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」 (ヨハネ 4,15)
この聖書の一節は、しばしば浮かんでくることがある。
「主よ、その水を私にもください。」
きっとこのサマリアの女の返事は、考えるという余地なく、こころからそのまますぐに、出てきたものだったろう。
イエスは旅に疲れて、正午に井戸のそばに座っていた。
そこに女が水を汲みにくる。正午、日が照り、誰もそうは汲みに来ない時間に。
イエスに水を一杯頼まれ、最初は淡々と、少し鬱陶しそうにも女は答える。なぜ、サマリア人の自分がユダヤ人に水を汲まなければならないのか。
ここでの意識は日常レベルで、自分の生きている現実世界、意識世界から会話をしている。
しかし話していくうちに、結局は女の方がイエスに水を請うことになる。
それも、そのことばはごく自然に、しかしこころの深いところから、でてきたもののようである。
「その水をください。」
そのひとときの時間には濃さが出ている。
濃さと、ひろがり、打破
時間は均等なようで、そうでもないのかもしれない。
私たちは物質的な世界を生きているようでいて、でもじつのところは多分に意識世界に生きている。
(参照:ヨハネ福音書 4,5-15)