いたみ
明け方、目覚めて胸がいたくなることがある。
たいていは、ゆめで何かつよいきもちをおぼえたときだ。 そう多くはない。
ゆめには、過去のことがよく、でてくる。
かつて過ごし、長年生活してきた家、まわりのひとびと。
ふしぎだ。出てくる人たちは、一緒に住んでいたごく近いひとから、ほんのわずかに、ある時期にのみかかわった人、またはまったく見覚えのない人まででてくることもある。
私はふと、小説「魔の山」のことが頭に浮かんだ。魔の山 にも、色々な登場人物が出てくる。そこに出てくるひとたちはさまざまで、特徴的で目立つひとから、影が薄くひっそりとした人までいる。 でも、影の薄さもひとつのたしかな存在感なのだ。 ーー 全体の調和、または、破壊的で不整合的であろうとも、あるひとつの総合のなかにおける。
胸が痛んだ。
できごとや記憶は、過去としての過去が過去性をおびてくるほど、ひしひしと、切実になってくるようだ。
ゆめはいつも具体だ。
だれかがいて、何かを話し、どこかにいるのだ。
よく知っている人が、残念そうな口調で、さびしそうなことを私に言った。
それはかつても、言われたことがある、特に珍しくはない会話に過ぎない。
けれども私ははっとしたのだ。
そうか、彼女はさびしかったのだ。
私はときの節目の出来事を、ーーたとえば日本では、お盆やお正月といった ーー 、年が増すごとに、子どもの頃に比べて、それほど大きなものとしては捉えなくなっているのかもしれない。
しかしそのようなさまざまな年のしるしや節目や季節の行事・風習は、思っている以上に無意識的に、潜在的に、何かある意味をもっているのかもしれない。
家族や親族の集まり、いや、そうでなくてもよい、ーー過ごし方は千差万別だーー 何かある一定の間隔で訪れる、繰り返しのようなものごとは、巡って来るたびに何かを思い出させ、振り返りをさせ、またその先を見据えるような、いや、単に また戻ってきた という気怠さでもいい、とにかくそこに残る諸々の感覚は、節目がない平坦な時の流れの連続のなかに起こりうる、何らかの意味なのだ。
「時」にもっと敏感に。
そして、なだらかでかわらない様相のなかにあっても、たしかに変わってゆくものごと、環境、人びと、の変遷や、そのなかにあってもしかし変わらないで持続しているもの、
そういう時の流れのもつ複雑さ、重層さのようなものを感じつつ、ながれにのみ込まれるでもなく、しかしながれに対抗するでもなく、ゆるやかに流れを感じながら、そこにある失ってはならないものごとをすくっていけるように、していたいと思った。